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 「島」 / 今田ずんばあらず

   東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ

 その歌を小学六年生の国語の授業で知った。初めて触れる和歌だった。当時意味なんてわからなかったけど、ようかんの食感みたいな、そんな響きであった記憶が心の底で眠っていた。そんな幼き日の宝物をサルベージしたのが大学二年の秋だった。
 僕は時々自転車に乗って神奈川中を走りまわる。東は川崎、西は山北、南は三浦半島先端にある城ヶ島と、とにかく力尽きるまでペダルをまわす。時には四十センチ脇を通過するトラックの風に煽られて由比ヶ浜の白い砂へと落下しかけたこともあったが、やはり自転車の「自らの力で前を進んでいる」感覚に僕は酔いしれたいのだ。
 僕の住む大寒川町から神奈川の北西、相模原市緑区(旧相模湖町)へ向かうに七沢は、国道四一二号線の長く続く上り坂を走らなければならない。さすが丹沢山地といったところか。だが、苦しみは津久井湖沿いの狭い国道に移り、山中を走行するところから始まる。上り下りの坂がいくつも折り重なっており、水責め椅子に座って拷問を掛けられる気分になる。つかの間の休息を与えることでむしろ体力を根っこから奪い取ろうとするのだ。何ラウンド目かの上り坂。自分との闘い。ハンドルをかしめるように握りしめ、立ちこぎを続ける。曲がり道の先は長い上り坂だった。息があつい、喉があつい、肺が干上がる――。
 その坂の頂上に登りつめた瞬間、目の前に映る光景が相模湖のなだらか水面なのだ。谷をせき止めて出来たこの人造湖に浮かぶ山の端は、まるで海に浮かぶ孤島のようであった。
 柿本人麻呂はきっと、あの歌を口ずさむ寸前、その月の美しさに心奪われたことだろう。最後の峠を越えた僕は、その湖の抹茶色に感嘆し、次に波打ち際まで大樹が生えた島々に言葉を一度失った。今なら人麻呂の気持ちが、手に取るようにわかる。そうして、茹だる頭の中で、人麻呂が見た背後の月を浮かべたのである。
 自らの力で前を進んでいる。その先にあるものは誰にもわからない。もしかしたら、そこには自分の知らない物語があるかもしれない。ひょっとしたら、僕の胸に宿る金剛石が、再び輝きだすのかもしれない。これだから旅はやめられないのである。

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